こんにちは、八幡ココロです。
昨日寝たのが2時半、起きたのが7時半、そして今週も土曜日はキャリコンの養成講座に行ってきました。眠たい、眠たい。けど楽しくって学びもある、いい一日を過ごしてきました。
上のタイトルに書きなおしましたが、今日は本当は
正社員が守られて非正規社員にしわ寄せの理由と今後の改善
というタイトルで書きかけました。けれども途中で脱線して全然違う内容を書いてしまいました。
5歳で不良デビューをした話に変わってしまいました
最初はまじめに書きかけますが、途中で変わりますので、二つの別の内容が書かれていると思ってください。最初のまじめな話は次に続きをしっかり書きます。
「失業と労働市場の動向」のさわりから書きかけます
キャリコンで、先週までカウンセリング理論を学んできていました、ロジャーズとか。そしてロープレは重ねています、来談者とのカウンセリングの実務です。
今日はいろいろ学んだ中で、法律の話が出てきましたのでアップしておきます。行政書士の勉強をしたときの復習にもなります。
まず、失業と労働市場の動向の中で、最大の事件が2008年9月のリーマンショックです。それ以降の急速な景気の悪化が雇用調整に大きな影響を与え、非正規社員の派遣切りなどの社会的な問題になり、今も続いています。
あのリーマンショックというのは100年に一度の金融危機と言われる、バブル経済の破壊以上に企業活動に大きなインパクトを与えるものだったようです。
本題はもうちょっと下で書きますので、急ぎの方は飛ばしてください、私の経験したリーマンショックについてせっかっくなので書いておきます。
上司と揉めて社外出向
私は2007年に管理職になりました、41歳でした。課長になったのですが、その年に赴任してきた部長とまあ揉めました。私は上司と揉めてばっかりです(^^;
入社以来従順に従った上司は3割くらいで、7割の上司とは揉めていましたね、客観的に見て組織からすると問題児ですかね。
まあ、上と揉める、揉めるだけでなくバカにするもんですから恨みを買う。ですので今の私のような扱いを受けているのもしょうがないのかもしれませんね。
けれども当時の私は無邪気に仕事を頑張るものですからお客様から信用を得て業績を挙げ、一緒に働く仲間からも支持を受け、上司の上司やその上司あたりからもかわいがってもらい引き上げてもらいました。
もめるのはいつも直接の上司です。管理職になった1年目もそうでした、新しく来た上司、部長と揉めました。昔から知っている先輩なのですが、私は会社ではちょっと上の先輩まではすぐに舐めてしまうんです。
今までそうしてきました、だから私になめられたりバカにされたりした先輩がたくさんいます。その人たちが事業部長や執行役員などをしていて、ま、私を荒っぽく扱ってくれているわけです。
しょうがない、背景にはこんな構造もあります、私の行動から出た結果です。
2008年に出向先に行ってからのことは次回に書きます。すみません、下には話しを脱線させてしまいました。違う話になってしまったもので(^^;
私は不良デビューが早かったんです、5歳くらいです
いじめっ子ですよ、幼稚園の頃から年長をいじめて泣かしていました、小学校4年の時に6年を泣かしていました。小学校、中学校と、ここに書けないくらいのことをしてきました、親にも迷惑を掛けました、40年ほども前のことです、昔のことです。
ちなみに不良のデビューが早いというのはいいことで、ネームバリューが効くんです、高校くらいまでですね、それはありがたかったです。どんなことだったかも、ここには書けませんが。
もうひとつデビューが早くてよかったことは、早くに更生できることです。小さいころからいじめられて、中学や高校で遅れて不良デビューした子は道を誤ります。
高校で不良をして補導されたりもっと厄介なことをしたり追いかけられたり、社会不適合になったりします、かわいそうです。
その点、私は高校は彦根東高校という一応当時の学区制の中では一番の進学校に行きました。
中学校でやんちゃばかりしながらなぜ行けるのかということですが、当時40年ほども前の滋賀県の湖東地区という田舎は、たぶん全体的に学力レベルが低かったんでしょう、私は要領よくチョイチョイと勉強するだけで点数は取れました。
そして行った高校は内申書は点数に入らないんです。要するに中学の時に素行が悪くて内申書の点数が低いとしても、入試の点数さへよければその田舎の進学校は合格させてくれたのです。
ま、そんなことで、5歳でデビューした私は中学まではやんちゃをしていましたが、
高校で更生して進学校に行きました
けれども中学までの友達や、私にいじめられていた子が他の高校で現役の不良をしていて、その子たちに私のネームバリューがまだ効いていました。そのおかげで私は不良が多い他校、彦根で言いうと近江高校の不良にも顔が効いてありがたかったです、という話です。
話がどんどんそれていってしまいました。ついでに書いておきますと、私はそんな経緯で進学校には行ったのですが、勉強ばかりができる同級生と仲良くなれず、なじめませんでした。気に食わないやつは殴って何度かケンカもしました。
入学できたといってもギリギリの成績で滑り込んでいるので点数はいつも学年最下位の落ちこぼれで、まあ、なじめませんでしたね。
ちなみに極真会館カラテにも通っていましたし、荒くれなかったですね、昭和56年~58年ころの話です。問題児ですよ、異分子です。
よく勉強して成績が良い同級生のグループが本流である一方で、私はスレた感じで完全に亜流でた。
けど卒業して35年以上も経ち、この同級生たちの仲間に入れてもらっています。同窓会や飲み会やゴルフなどにも呼んでもらい仲間に入れてもらっています、ありがたいことです。
みんなすごいですよ、医者と銀行が多いですね、大手企業の事業部長や本部長や執行役員や、銀行も都銀の役員の一歩手前とか、日本の最大手鉄道会社の役員とか、大手出版の部長や編集、コンサル、もっとおるんでしょうね、まあ、社会的に成功した同級生が多くいます。
この前、東京で6人で集まったときには、京大・京大・早稲田・早稲田・慶応・私(大阪の私立の3流大学)、みたいな集まりでビックリしました。ま、それでも今会えば高校生に戻ったくらいの感覚で話をしますし、違和感なく仲間に入れてもらってるんですけれどね。
そしてエリートばかりでもなく、同級生にもいろんな奴がいますので、仲良くメンバーに入れてもらっています、これも歳喰ったからですね。
そう、滋賀県にはこの高校の同級生も残っています、滋賀県を出ていっているのも多く、でも滋賀県に親を残して心配していたり、家を残していたりします。
もし私が滋賀に戻って行政書士をすることがあれば、彼らのニーズにも対応したいと思います。親の遺書や相続や遺産分割など、手伝えるなら手伝ってあげたいと思います。それが定年サロンです。
今日のアップでは本当は
2007年に管理職になり、課長1年目で上司の部長と揉め、社外出向となり、その出向先で2008年にリーマンショックに合って、えらいことになり、出向先の会社での雇用調整もひどいことを経験し、それがどういうことだったのか、雇用調整とはどういう事か、なぜか、法律的には
とか書こうと思いましたが次にまわします。上司をなめてしまうところから、年上を泣かしてきた不良デビューが早かった私の生い立ち、高校の時代とその同級生の話になってしまいました。
こんな生い立ちが、すぐ人をなめてしまう、自分は正しいことをしていると信じている、上級生であろうがイキッテいる奴やアホに見えたらすぐにやっつけにかかる、上級生だからこそやっつけてやろうという、
なんかそういう人間としての欠陥を私は持っているんでしょうね
私の振る舞いがヘボかったとは思っていますが、悪いことをしたとは一つも思っていません。それが今、私がこんなふうになっている理由なんでしょうね。
書きながらちょっと気づきましたよ。
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