こんにちは、八幡ココロです。
たくさん書きたいんですが、上手に書けません、前2回はけっこう冗長的になって、何を伝えているのかわからなくなっています。ま、それも八幡ココロってどんな奴やねん、というのにちょっと興味を持ってもらった方だけで結構ですので覗いてみてください。
さて、書ききれていない、この順に書いていきます。
- 雇用調整は2008年のリーマンショック以降きつくなった
- 私が経験したリーマンショック
- 非正規社員にしわ寄せがいく法律の話
- その法律が改正されて今年、2019年4月から施行された
雇用調整は2008年のリーマンショック以降きつくなった
キャリコンで、先週までカウンセリング理論を学んできていました、ロジャーズとか。そしてロープレは重ねています、来談者とのカウンセリングの実務です。
まず、失業と労働市場の動向の中で、最大の事件が2008年9月のリーマンショックです。それ以降の急速な景気の悪化が雇用調整に大きな影響を与え、非正規社員の派遣切りなどの社会的な問題になり、今も続いています。あのリーマンショックというのは100年に一度の金融危機と言われる、バブル経済の破壊以上に企業活動に大きなインパクトを与えるものだったようです。
私が経験したリーマンショック、今思うとホントに厳しかった
私は2007年で41歳で管理職になり、先輩部長と揉めて1年後の2008年にちょうど
M&Aしたところの子会社に営業部長として出向
しました。社員250人、売上200何十億円の装置会社です。それでも赤字だったんです。これを立てなおすぞ、と乗り込んだんです。
行ってどうだったかを書き始めると、またえらいことになります。たぶんこの経験は書ききれないほどです。けれどもちょっとづつ書いていきます。
風土、育成、組織の意思決定などが全く違った
今書かなければいつ書くことになるか分かりませんので書いていきます。この後に、下の方に実際に合った雇用調整について、少しの内幕と共に記載しますので、この部分についてはコラム的にお読みいただければいいかと思います。
赴任してすぐに、問題だらけですよ。出社1日目から課長から私への電話攻めです、「あーなってます、どうしますか」、「こーなってます、そうしますか」、「この価格(赤字)を今出さなければ明日失注します」、「えらいことになってます」、「私は忙しくてどうしていいのかわかりません!」って。
アホか、と。あんた課長やろと。今始まった話と違うやろ。なにあんた、来たところの何にも知らん俺に、「どうしますか?」「どうしますか?」ってかぶせるように何言うてんねん!と。あんたどうするねん、あんたの仕事と違うのか、あんたの判断はよ、と、どうしてほしいねん。ほて今日の明日って何やねん、何してきててん!と、年上の課長に思うわけです。
まあ、もともとNE*さんの**事業部なんです。だからM&Aして私の会社の100%子会社となって、乗り込んだこの会社の250人の社員は元NE*の社員なんです。この会社は国防のために作られたような会社です、決められたことを間違いなくやりなさい、という会社です。なので、現場に判断させてくれません。何があっても現場では判断せず、こうなんです指示をください、こうなんです指示をください、こうなんです指示をください、って言って社長まで上がって、訳の分からん社長が訳の分からん判断をする、という会社でした。そして東大閥なんですよね、東大出ばっかりが出世すると決まっているんです。そんな人たちが要職を順繰りに回っていくんです、で、その都度無責任で訳の分からん判断と決裁をしていくんです。ここにも残っていました、日和っている東大出が部長とか相談役とか要職に。そして買収した親会社から立て直しに出向してきた若造の私には頭を下げて気を遣っていました。気は使わなくていいんですが、きちんと自分で判断して仕事をしてくださいね、ということなんですが。
現場に権限移譲もない、スピードもない、正しい判断もできない、しかも現場に考えさせないことで人が育たない。みんな上を向いて仕事をする、そもそもお客様のためということなど考えたこともない元々2万人の社員の会社で、結局売られて250人の会社になった人たちですが、気持ちは2万人の会社の時と同じプライドと仕事の矜持を持たれています、弱りましたよ、乗り込んだ営業部長42歳は。
まあ問題だらけでして、行っていきなりいろいろ始めましたよ
- 戦略の再策定 顧客 × ニーズ × 強味
- 営業活動のKPI化、行動の再構築
- プロモーションのやり直し、売り方の再構築、販促ツールの作り直し
- 品質部門、製造部門とのセクショナリズムの破壊
- 売り方の改革とともに者の持ち方を変えて納期改善
- 顧客要求からの品質の作り直し
- 販売店制度の運用再構築
- 赤字販売と理由のない安値販売顧客への値上げ
- 赤字製品の生産中止
- 社員教育、モチベーション付け、自信の回復、希望、一体感心、問題への対応
- ・・・
- ・・・
- ・・・
当然お客様にもガンガン行きました。謝ることやトラブルの対応も多かったですし、新規の開拓も部下と一緒に頑張りました。もっといろいろやった気がします、短期間で。必死でしたし、やりがいもあったし、自信もあったし、希望に燃えていた、V字回復させてやる、このメンバーと一緒に、と。
赴任した当時の事業環境や営業見込みはひどいもんでした、凋落の一途を行っていました。競争力、品質、納期、価格対応力、全然だめで、新規顧客へもアプローチできていなくて、まあ、沈みゆく船でした。でも、上に書いたようなこともひとつづつやっていって、膿を出しつつ、新たなテーマを発掘して、新たな客先へもアプローチして、少しづつその年度の売り上げ見通しも上げていました。
そこに、秋ごろからの嫌な世の中の動きです
私たちの扱っていた装置は、安いのは300万円くらいのもありますが、600万円とか、1,000万円とか、2,000万円です。それって、生産ラインの新設の中で採用されるものですので、お客様は1億円とか、2億円とか、そんな設備投資予算をとって実行しようとされているのです。
そこでリーマンショックです。そんな状況になって、お客様は作っても売れなくなりました。そして回復の見通しも立たない状況で、設備予算がお客様で凍結されたり取り消されたりし、バタバタと私たちが見込んでいた受注がなくなっていきました。
これにも伏線がありまして、実はバブルが崩壊した1990年の時は、まだ日本の企業は甘くって投資を続けていたのです。それが日産だったり、他の製造業でもそうですが、製品が売れもしないのに過剰な設備を抱えて、その維持や投資費用の支払いで会社が傾いた例がものすごくあったんです。なので製造業ではその反省があり、失われた10年だの20年だの言っていたリーマンショック時は賢くなっていて企業はすぐに設備投資を止めたんです。
発注されていたお客様はシブシブ導入されたところもありますが、発注していたにもかかわらず注文を取り消させてほしいと言われてきたお客様もありました。こっちも材料を仕入れて生産にかかっていますので、はいそうですかとは言えずに私もだいぶん交渉しました。
そんなことで、私の任されていた一つの事業予算が前年90億円で赤字だったのを、なんとかトントンにする120億円の予算で上に書いたようにそれなりに見込みを立てながら走っていたんですが、このリーマンショックのおかげで、秋から年末にかけて今後売り上げがあがる見込みが立たない状況になりました。
社長や副社長や工場長は大騒ぎでした、資金繰りにかかわるからです。ある種、売れて何か月後に納品、設置、立ち上げをして、研修いただいてから手形をいただけ、その現金化に3~6か月ほどもかかります。そのお金をあてにして事業が回っています、社員への給料も含めた固定費、販管費などもありますが、仕入れへの支払いです。急に見込みが変わったりキャンセルされたた、もうグダグダになるんです。資金繰りをどうするか、そしてこの状況が長期化するようなら
雇用調整をせざるを得ないんです
250人で、200億円の売上で赤字だったのが、これが全社で100億円の売上に落ちて、急には回復しないだろうというときに、このままだと給料が払えなくなります、借り入れが増えます、会社が倒産します。
結局このM&Aした子会社で何をしたかを羅列しておきます
- 経費削減
- 一般職残業削減・残業禁止
- 管理職年俸削減
- 管理職ボーナスカット
- 派遣切り
- 一時帰休
- 一般職ボーナスカット
そして、早期退職の実行です
これは親会社の株主総会が終了した翌日の6月に応募が開始れました。
その後も辛かった。早期退職の応募範囲はすべての社員に広げられました。通常、辞めてもらいたくない人は対象外にするのです、辞めてもらったら事業が続かないような開発部門だとか。そしてある年齢に達した人を対象にするとか。
しかし、全員が対象でした。副社長に聞いたら、そんなこと言っている場合ではない、軽くならなければいけないということでした。なぜ軽くならなければいけないか、それは会社をどこかに買ってもらうためにも、解散するためにも、軽くならなければいけないと。私が思う再建のため、どころではなく、もっときつい覚悟で早期退職を実行していました。これを経営というのでしょうか。
辛い辛いと言っているのは、対象はM&Aされたこの会社のプロパーの社員のことで、出向している私のような親会社の社員は対象ではないのです。一緒に頑張ろう、建て直そうといって頑張りかけたメンバー、私の部下が対象です。
実体をここに書いていいのかどうか知りませんが、書いておきますと、
ちょっとやめておきます、ちょっときつすぎます。
私が今の会社を辞めた後、世の中の一例として話す時が来れば話します。
ちょっとだけ書きます、これらは時系列をたどってやむにやまれず行われた雇用調整に見えますが、実は全部出来レースだったこと、雇用調整をするために、誰にも何も文句が言えないようなプロセスを踏んだという実態、経営はここまで考えて行っていること。
この手のコンサルがしっかり入ってやっていること。全員対象だが、実は会社は事前に社員にABCの・・・。書くのはやめておきます。
親会社の私たちは前に出ずに、面談はM&Aした会社のプロパーで行ってもらいました。辛かったと思います。M&Aされた親会社の指示で、元々の自分たちの会社の部下に面接をして退職を促すんです。そんなリーマンショックの厳しい世の中に放り出すようなことを。
私の担当していた営業部門とサービス部門からも退職者が何人もでました。思い出しても辛い、ここでこの話はやめます。11年前、実際にいろいろあったのは2019年ですから、今から10年前ですね。一つの厳しい時代でした。
このことでね、私は2009年の10月にまた親会社、今の会社に戻されたんです。こんな赤字なのに、高固定費の管理職が出向している場合ではない、プロパーにやらせろ、ということで出向解除になり戻りました。悔しかったです、社長室に行って残してくれと訴えました。「ありがとう、けれども決まったことだ、向こうでも期待して待っている」と説得されて社長室を出ました。大人げないですが、その時私はゴーゴー泣いていました。今思い出して書きながら涙が出そうになっています。熱かった、自信と希望に満ち溢れ、覚悟を持った八幡ココロ、43歳でした。戻った先は静岡の課長でした。
親会社も業績は落ちで大変なことになっていましたが、体力があるのでこんなに厳しい雇用調整はしていません。あの時、装置子会社に出向していたから私はこんな経験をすることができたのです。辛い思いでですが、私は世の中を見て生きてこれました、経験として。こんなことも、これから役立てたいと思います。
けれど、当時こんなこと、雇用調整が日本中で行われていました。「内定とりけし」が問題になったのもこのころです。
次は、やっと法律についての根拠と知識について書いていきます。
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